携帯電話は贅沢品???

生活保護費の引き下げ、その理由は妥当か?
ツカサネットというのに非常に共感する記事があったのでご紹介します

難しい問題ですがこれによって働く人が増えるのか?本当に困っている人と怠けている人の区別ができるのか?総額でどれだけ削減効果があってその額は今の国会議員や政府の予算削減でまかなえないのか?古いデータを元に今後の生活費を試算する妥当性は?などなど疑問が多々あります

とくにケータイは贅沢品だとされているようですが今やケータイなしではアルバイトも見つからない

(PCはもちろん贅沢品)ようなライフラインになってきているのに。。。お役所仕事のよい例ですね




以下引用です




厚生労働省の検討会が、生活保護費のうち食費や光熱費などの生活扶助の額が、保護を受けていない低所得者の生活費よりも多いという報告書をまとめた。これを受けて、厚生労働省は年内を目処に生活保護費の具体的な引き下げ幅を決定する。この検討会は今回を含めて5回の開催で報告書をまとめたと報じられている。生活保護を打ち切られて人が餓死するといったニュースでも分かる通り、人の生き死ににも関わる重要な事が「たったの5回」で議論を尽くしたとされたわけだ。

憲法二十五条の生存権に関わる「生活保護費」、これを引き下げ可能とした根拠は、「平成16年に行った全国消費実態調査と現在の基準額を比較したところ、収入が低い方から10%以内の低所得者世帯で夫婦子1人の場合だと約1600円、70歳以上の単身世帯だと約1万2000円、基準額が上回っていた。」というもの。つまり、保護を受けている人よりも貧しい生活をしている人が居るからというもので、単純と言うよりは短絡的な理由付けだ。検討会の事実に対する視点は「保護が多いのではないか?」という方向に偏り過ぎではないか?

「最低限の生活が出来ない世帯が増えている」という考え方でこの報告をとらえてみる必要は無いのだろうか?生活保護を受けている世帯よりも低い生活費で暮らしている低所得層は、憲法二十五条にある「健康で文化的な生活水準」を維持出来ているのだろうか?という疑問が出て来て当然だと思うのだがどうだろう?さらに、現代社会における「健康で文化的な生活水準」についても考えてみる必要がある。それは10年前とは違うものになるはずだ。例えば携帯電話はどうだろう?以前の私は、携帯電話なんて贅沢品を保護を受けている人が持っているのは変だと思っていたのだが、このごろよく報道されている「ネットカフェ難民」の実情を見ると、食費を削ってでも携帯電話を維持しておかなくてはアルバイトを見つける事が非常に難しくなってしまう。今や携帯は貧困へと落ち込んでしまわない為の命綱になっているわけで、なんとなくイメージで贅沢品と片付けるワケには行かなくなっている。


今の経済状況についても考慮する必要があるだろう。ガソリンも灯油も値上げされている、日常の食品や紙製品も値上げが続いている。物価上昇の流れは長く続くと予想されているというのに、この時期にデフレ時代である平成16年の全国消費実態調査を元にして「生活保護費の引き下げ」を決定するというのは妥当な事だろうか?私にはそうは思えない。世界経済の動きから考えて、エネルギーや食料といった低所得者がより大きく影響を受ける所からインフレが進む事は明らかだというのに、ここで引き下げを決定してしまっては生活を保護する事にならない。

そもそも生活保護は世間の最低所得を元に考えるべきものではない、本来なら「国が考える人間らしい生活水準」に基づいて決めるべきものだ。低所得者の生活費より生活保護の方が多い「逆転現象」が繰り返し強調されているが、これでは一般庶民に「生活保護は不当な優遇」であるかのように印象づけてしまいかねない。そんな印象がついてしまったら、生活保護が必要な側は引け目を感じて貰いにくくなり、精神的に追いつめられて「餓死」などの事件に繋がる可能性が高まる。貰っていない側にとっても、これは最低賃金の引き下げを誘発する事なので、「不公平」が解消されるどころか「生活がより苦しく」なり、その先には、生活保護が貰いにくいという負のスパイラルが待っているのだ。

生活保護の問題は、それを必要とする人たちだけの問題ではない。そこを勘違いすると、生活保護を貰っている人と、そうでない人の間に奇妙な対立構造が出来てしまう。実際は、生活を守りたいと願い、共に手を取り合い、この問題に関心を持っているぞと国に対してメッセージを送る仲間なのだ。生活保護のお世話になる事があるかどうかは関係ない、いざという時の為の保護なのだから、お世話になる前に考えておかなくては手遅れなのだ。

ここで、生活保護に関して国を相手に争った訴訟を紹介したい。こうした努力の継続でつくられるのが「国」なのだと私は信じるが、どうだろう?

憲法二十五条の生存権に関する有名な訴訟がある。一九五六年に、低過ぎる生活保護費は憲法違反として国を相手に争った朝日訴訟だ。人間の尊厳の価値を問う裁判でもあったことから人間裁判とも言われ、支援運動も盛り上がった。この訴訟を通じて生活保護費が実質的に引き上げられ、労働者の賃金にも影響を与える事となった。第一審の判決では、憲法二十五条にある健康で文化的な生活水準とは、単に辛うじて生物として生存できる程度のものであってはならない、その基準は裁判で争うことができると判示している。

国は忘れてしまったのか、忘れたフリをしているんだか知らないが、今から50年以上も前にこの裁判で結論は出ている。低所得者の生活費を元にして生活保護の引き下げを正当化しようとするのは、「辛うじて生物として生存できる程度」を健康で文化的な生活水準としてとらえる事に繋がる。低所得者の生活費と生活保護の「逆転現象」よりも、生活保護を劣悪な方向へと後退させる「逆行現象」をこそ問題にするべきだ。

最後に、もう1つ大きな疑問がある。「たったの5回」の検討会と冒頭に書いたのだが、逆に「5回も行われた」検討会について、報告書がまとまってしまうまで大きく報道されなかったのはどうしてだろう?テレビや新聞は読んでいる方だと自負しているのだが、報告書がまとまる以前の報道には心当たりが無い。念のため、ウェブで検索してみたが、一部地方紙で取り上げられただけのようだ。声を上げる必要性を知らされた時には、既に報告書がまとめられているというのでは、何の為の報道だろう?政府の宣伝告知の域を出ない報道に留まっていては、社会に果たすべき役割を放棄していると見なされても仕方ない。報道の役割の中でも「社会の目」となって庶民に危機を知らせるという役割は欠く事の出来ない重要なパートである。石に躓いてからでないと瞼が開かないような目では困る。躓く前に石を見せる(警告する)目であってもらいたい。






(記者:花田 昌幸)